【滋賀の風景の魅力】
俳人の松尾芭蕉は、滋賀(近江)が大好きでした。
日本の原風景を思わせ、どこか郷愁を誘う。
芭蕉をとりこにした滋賀の風景には、いったい何が秘めらているのでしょう?
ぜひ理由を知りたい!ということで、
民俗学者で俳諧研究者でもある篠原先生にインタビューをしてきました!
聞き手は、しがトコ編集長の亀口がつとめます。
篠原徹 (シノハラトオル)
2010年に滋賀県立琵琶湖博物館館長に就任し2019年に退職。現在は、名誉館長を務める。国立歴史民俗博物館名誉教授。世界や日本各地に足を運び民族文化を研究する
風景にはいくつも歴史が交差する
しがトコ亀口:篠原先生は、民俗学の研究をされているんですよね。
篠原先生:人と自然の関係性に関心があってね。
山村や漁村へ行って、一緒に生活をしてきました。
しがトコ亀口:そういうなかで、関心が「俳諧にみる自然と人の関係」に移ってこられたと。
篠原先生:いつの間にか、すっかり俳諧研究者になっちゃいました。
しがトコ亀口:今日は、俳諧研究者として
「芭蕉から見た近江の風景」というところでお話を聞かせてください。
篠原先生:はい。近江の風景のなかには、とにかく歴史があるわけです。
たとえば壬申の乱では最後に、大海人皇子が大津市にある「瀬田の唐橋」で戦います。
瀬田の唐橋は、「唐橋を制するものは天下を制す」と言われ京都へ通じる 重要な軍事・交通の要衝として、歴史的な合戦の舞台となった(photo by @kiraku_ni_ikuo)
篠原先生:何気なく歩く場所が、その昔、大海人皇子が馬を走らせたり、
歩いたりした場所かもしれないんです。
しがトコ亀口:そう思うと、何だか自分の立っている場所に歴史を感じますね。
篠原先生:僕は近江八幡にいるけど、田んぼのとこ歩いとったら、
信長が夕涼みに安土城から出てきて、同じように歩いてたのかなと思う。
日本史に書いてある話だけでも山ほどあるじゃない。
天下を治めるため、近江をおさえる
篠原先生:栗東市に“十里”というところがあるでしょう?
あそこも歴史地理学者にとっては聖地みたいなところなんです。
しがトコ亀口:そうなんですね?!
篠原先生:十里っていう名前からもわかるんですが、
あの辺りは「条里制」が残っているので有名なんですよ。
条里制は、古代律令国家の頃の長さの単位。土地の区画を規則的に編成し、1町 (約 109m) 間隔で区切った土地区画(管理)制度
町づくりをするときに、古代と同じ、条里制を取ったんです。
しがトコ亀口:野洲市の五条や六条という地名もそこから来ているんでしょうか?
篠原先生:そうです。五条にある「兵主大社」には平安時代の回遊式庭園もあります。
風景のなかにその地域がかかわった戦争なり、
支配の歴史なり、普通の政権の歴史なり、みんな堆積してる。
しがトコ亀口:先ほどの瀬田の唐橋や、織田信長のお話もそうですが、
歴史の舞台にたびたび出てくる、滋賀だからこそですね。
篠原先生:京都の隣やからね。この、京都の隣というのが大事。
しがトコ亀口:京都の隣ということが大事なんですか?
篠原先生:大阪も同じやけど、大都市というのは消費都市なんです。
生産する人がおらん、それを支えたのが近江なんです。
だから、天下を治めるためには、近江を押さえる。
しがトコ亀口:近江は政治的にも重要な場所だったんですね!
京都のお米を支えた滋賀の広大な水田
篠原先生:芭蕉の弟子・浪化の句で
「稲むしろ近江の国の広さ哉」というのがあります。
たとえば山梨とか群馬で見れば、畑と田んぼの割合がだいたい半分ずつ。
でも滋賀県は農耕地のうち、水田化率が日本一なんです。
92%ぐらいあるわけ。
しがトコ亀口:そんなに!知りませんでした。
篠原先生:京都にお米を出すために、もう開拓に開拓して水田を作ってきたからね。
そしたらさ、広々とした水田のなかに社叢(しゃそう)林があって、集落が島のように浮かんでる。
こんな光景っていうのはなかなか珍しい。
八幡山ロープウェイから見下ろす滋賀の水田景色(photo by @lohas_hide1)
しがトコ亀口:幻想的ですね。
篠原先生:考えてみれば当たり前なんだけど、湖っていうのは平らでしょ。
琵琶湖の長さは63キロほどあるんだけど、その距離ずっと平らなわけ。
だから農耕地がとても広いんですよ。
しがトコ亀口:独特の地形も、近江が「人と自然の関係性」を深めた理由になるわけですね。
武将も駆け上がった”ちょうど良い”滋賀の山
こんもりとした山が点在する特徴的な地形(photo by @maaasa0621)
篠原先生:独特な地形ということでお話すると、
4~500メートルほどの小さな山がたくさんあるところも、滋賀の風景の特徴です。
しがトコ亀口:お城があったことでも有名ですね。
篠原先生:これは高すぎる山ではいかんのです。
人間が征服できる高さの山というと、せいぜい4~500メートルなんですよ。
賤ヶ岳に行ったことはありますか?
しがトコ亀口:じつはまだ行ったことがなくて。
篠原先生:あそこは面白いですよ。
余呉湖と琵琶湖がよく見えることもですが、賤ヶ岳の戦いがあったところ。
向こうに柴田勝家側、こっちに秀吉側の雑兵どもが、
鎧を着て400メートルの山を駆けあがったり降りたりするわけでしょう。
そこに素晴らしい銅像があるんです。
しがトコ亀口:「戦いのあと」という像ですね。
篠原先生:そう、鎧兜着た、雑兵よりもうちょっと偉いさんが、
腹は減るし殺されるかもやしと、疲れ果てた様子が素晴らしい!あれは名作です。
鎧を着て山を駆けあがり、また駆け降りて…。戦いのあとの疲れ切った姿が哀愁を誘う山頂にひっそり佇む銅像
しがトコ亀口:銅像って立派に見えるものが多いのに。
篠原先生:全然。でもそういう人の営みがあったのは、
山の高さが人間が征服できるギリギリの高さやったからなんです。
逆に比叡山には延暦寺いうお寺があるでしょう。
鎧着て駆けあがるなんて無理な高さのところやからこそ、俗世間と離れて修行できる。
山の高さも歴史の堆積性にかかわってくるんです。
近江はシルクロード?!
淡い色彩に包まれる、夕暮れ時の静かなびわ湖(photo by @ef2818yuya)
しがトコ亀口:先生の本に、芭蕉の「行く春を近江の人と惜しみける」という句が出てきます。
篠原先生:有名な句ですね。
しがトコ亀口:俳人の森澄雄さんがこの句をシルクロードで思い出した
というエピソードでしたが、これはどうして?
篠原先生:それは森澄雄を読まないと。
しがトコ亀口:ごもっともです(笑)
篠原先生:いやいや。
これは何でかというとね、シルクロードっていうのは、
多民族が行き交うオアシスみたいなところのマーケットでしょ。
そこでふと思うわけ。
人間にとってのふるさととか、自分にとっての故郷ってなんだろうかなって。
そこに住む人を見ていると、そういうことを喚起させたわけだ。
しがトコ亀口:不思議ですね。遠い異国の地でそんなふうに感じるなんて。
篠原先生:それはやっぱりそっちが日本文化の原郷という感覚があるからでしょう。
しがトコ亀口:原郷ですか。
篠原先生:うん、原郷。
それで、日本のなかで同じように原郷を感じさせるのはどこかというと、
それが近江っちゅうことやね。
古代の人も同じ月夜を見上げていたとも想像できる、どこか懐かしく幻想的な風景。滋賀県高島市マキノ町で撮影(photo by @takahiro.komai)
しがトコ亀口:ここで近江の話が出てくるんですね!
でもなぜ、近江がシルクロードなんでしょうか?
篠原先生:ひとつは近江が、日本列島の中心にあって、
たくさんの街道が通っていたことでしょう。
人も物も文化も、ここを通って広がっていった。
もうひとつは、南極とシルクロード、どっちが原郷を感じさせるかという話やね。
しがトコ亀口:うーん。それはシルクロードかもしれませんね。
篠原先生:南極は綺麗かもしれないけど、人の匂いがない。
僕はこの間、信州の安曇野を回ってきたんだけど、
穂高や立山のようなすごい山が、ずらっと屏風のように連なってる。
だけど、やっぱり人の匂いがしないでしょ。
しがトコ亀口:たしかに人の匂いを感じる場所の方が、ふるさとという感じがします。
篠原先生:人が自然に働きかけて、道を作って、通商したり、交易したり。
その歴史の堆積性に、原郷を感じる。だから、近江はシルクロードなんです。
芭蕉の胃袋をつかんだ近江の味
しがトコ亀口:実際、芭蕉の句のなかで、
近江を書いたものはどれくらいあるんでしょうか。
篠原先生:近江を舞台に、90数首書いてることは間違いない。
芭蕉はよく京都へ行ったけど、京都が嫌いやった。
しがトコ亀口:嫌い?
篠原先生:京都には和歌の文化が強いから、
俳句・俳諧という新しい文化がダメやったんよ。
それと、蕎麦がまずかった。
しがトコ亀口:蕎麦が好きだったんですね。
篠原先生:こんにゃくとかキノコとか、そういうのも好きだったみたいやね。
蕎麦は田舎を代表するものなんだけど、どこが産地か知ってる?
しがトコ亀口:滋賀ですか?
広大な敷地に白い花を咲かせる蕎麦畑(photo by @@ymmm618)
篠原先生:滋賀で有名なんは米原のあたりやと思うけど、
今の国道一号線が走ってるあたり、あのへんは昔、みんな蕎麦畑だったんや。
芭蕉が住んでた義仲寺のあたりも蕎麦畑。
義仲寺で詠んだ句に、「蕎麦も見てけなりがらせよ野良の萩」というのがあってね。
しがトコ亀口:蕎麦の俳句もあるんですね!
篠原先生:「けなりがらせる」は、「羨ましがらせる」という意味で、
萩と蕎麦の花がこう並んでて、芭蕉は蕎麦を褒めてるわけや。
で、僕はこの「萩」は、京都のことで、京都を揶揄した俳句やと思ってるわけよ。
しがトコ亀口:そんなふうに読めるんですね!
篠原先生:僕はそう読みとったんです。
まあ、芭蕉は京都より近江の食べもの、田舎の食べものがあってたんでしょう。
芭蕉が見た同じ風景をいまに見る
しがトコ亀口:近江の句で、先生がお好きな句はありますか?
篠原先生:「比良三上雪さしわたせ鷺の橋」
これは近江の風景を詠んでます。
広重の絵と今の街並みの写真、この二つを合成すると、
芭蕉の見てた景色はこういったもんやろうと。
(参照)琵琶湖博物館ブックレット/篠原 徹著『琵琶湖と俳諧民俗誌―芭蕉と蕪村にみる食と農の世界』
篠原先生:その二つの山の前に、田んぼがある。
二月頃になると、この田んぼに
コサギ、チュウサギ、ダイサギ、アマサギなんかが渡ってくるわけや。
しがトコ亀口:渡り鳥ですね。
篠原先生:その時期、三上山にも比叡山にも雪はないんですが、
写真を見てもらうと、比良山には雪がある。
(参照)琵琶湖博物館ブックレット/篠原 徹著『琵琶湖と俳諧民俗誌―芭蕉と蕪村にみる食と農の世界』
雪のある比良山と、雪のない三上山、そして雪のように白いシラサギ
という構図ができあがって、
あっちの白を持ってきてこっちに持ってこいということで、
「比良三上雪さしわたせ鷺の橋」と詠んだんでしょう。
しがトコ亀口:なるほど、芭蕉もこの景色を見ていたと。
篠原先生:要するに、この目の前にある田んぼは、芭蕉が見ていた風景なんですよ。
しがトコ亀口:芭蕉が見たものと同じ風景が、今でも見えるんですね!
篠原先生:見えます、見えます。
もしそれを実感したいなら、
芭蕉が数ヶ月住んでいたことのある国分山の幻住庵へ行ってみてください。
「幻住庵」は松尾芭蕉が江戸時代の元禄3年に約4ヶ月間暮らした滋賀県大津市にある草庵(photo by @wabikonet)
篠原先生:藪を抜けて少し行ったところに、
比良山と三上山、両方が綺麗に見える場所がありますから。
そこへ行くと、左から右へ、
「ひろやかな空間とはるかなる時間」というのが、両方見えるんです。
しがトコ亀口:それはもう、近江は俳諧・俳句のふるさとと
言い切ってしまってもいいかもしれません!
篠原先生:いいんじゃないの。僕も近江のことを「句どころ」って呼んでます。
都市よりも近江の風景を愛した芭蕉
篠原先生:芭蕉の話でいえば、
芭蕉は俳諧師として偉くなりたい、有名になりたいと思って江戸にも出て。
でも、だんだんつまらなくなっていくんです。
しがトコ亀口:江戸が合わなかったんですね。
篠原先生:そう、見るだけの萩の花より、
見て美しい、食べて美味しい蕎麦の花の方が良いんじゃないかと思う。
結局は小さい時に見た風景や食べもののなかに文学を発見していくわけです。
しがトコ亀口:庶民的な感覚があったんですね。
篠原先生:それまでは文学というのは貴族に囲いこまれたものだった。
それを、日本で初めて大衆のものにしたのが芭蕉なんちゃうかな。
しがトコ亀口:そのきっかけが近江にあった。
篠原先生:そうです。山は高すぎず、低すぎず。
中くらいにすべてがそろって、人の営みがあって。
そしてなんといっても、広々と開けた空間。農村の風景。
そういう近江の風景が芭蕉にとっては都市よりも魅力的なものだったんでしょう。
しがトコ亀口:そして、その景色のひとつひとつに、
理由や歴史があると思うと、見え方が変わりますね。
篠原先生:景観には色んなものが含まれてるからね。
一つ例を挙げれば、祇王井っていう川があるでしょう。
これは平清盛の愛人だった祇王が、
自分の村が水に困ってるから野洲川から水を引いてほしいとねだった。
それが今も流れているわけじゃない。
しがトコ亀口:人と自然の歴史が今につながって風景を形作っているところが、
芭蕉も好んだ近江の魅力なんですね。
篠原先生:そうですね。
しがトコ亀口:先生と近江をぶらり歩きしてみたくなりました。
本日は歴史を感じる貴重なお話をありがとうございました。
(聞き手:亀口美穂 写真:若林美智子 文:大関梨紗 編集:しがトコ編集部)
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