Interview

古くから“都”の食を支えてきた近江米。その歴史を紐解きます。

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かつて「大津京」や「紫香楽宮」といった“都”があり、
安土桃山時代には、織田信長が安土城を築くなど、
日本国の中心であった、近江国・滋賀県。

ここは古くから米の産地としても栄え、
京や大坂などの食を支える一大穀倉地帯でもありました。

滋賀で作られるお米は、今も「近江米」と呼ばれ、
京阪神エリアを中心に流通しています。
そんな近江米には、どんな歴史があるのでしょう。

時代の移り変りをたどりながら
2人の専門家の方にお話を伺ってきました。

弥生時代に始まる米作りの文化

まず初めにお話を伺ったのは、琵琶湖博物館の学芸員でもある妹尾裕介さん。
滋賀県での米づくりは、いつ頃から始まったんですか?

学芸員の妹尾裕介さん

「滋賀県最古の水田遺跡は、守山市の服部遺跡にあります。
時代としては、弥生時代前期のもの。
大体それくらいの時期に、稲作は全国に広まっていったといわれているので、
滋賀県での米づくりもその頃から始まったと考えていいと思います」。

弥生時代前期というのは、紀元前300年ごろ。
つまり滋賀県では、今から約2300年前には米作りが始まっていました。

琵琶湖という恵まれた水資源があったこと、
そして、大きな平野部が広がり肥沃な大地があったことなど、
要因はいろいろと考えられますが、
当時、米作りの最先端地域だった可能性は高いと考えられます。

食が豊かなところには、人が集まり、街が栄えます。

667年(天智6年)には、中大兄皇子(のちの天智天皇)が、
いまの滋賀県大津市に都を遷します(大津京)。
また、742年(天平14年)には、聖武天皇が、
いまの滋賀県甲賀市に遷都(紫香楽宮)するなど、
古くから政権の中心的な位置に、近江国がありました。

平安時代にできあがる水田のカタチ

平安時代を迎える頃には、近江国の水田面積は、
全国でも指折りの広さにまで成長していました。
当時の様子は『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』という
平安時代の辞書にも残されているそうです。

本を見る妹尾裕介さん

「この本には、近江の国の田数が3万3402町5段180歩と書かれています。
そしてその面積は、陸奥、常陸、武蔵に次いで全国で4番目。
西日本では最大の面積だったんですね」

妹尾さんが言うには、この面積は、
現在の単位に換算すると約40,000ヘクタールにあたるそうです。

「2022年現在では、滋賀県の水田面積は約47,000ヘクタール。
つまり、平安時代の段階で、現在の滋賀県の水田面積の8割以上なんです。
滋賀県内のほとんどの田んぼが、
平安時代にはすでに開墾されていたという計算になるんですよ」

いま、滋賀県内を車で走っていると、
至るところに田園風景が広がっていますよね。
その8割以上の田んぼは、
もしかしたら平安時代から続く景色なのかもしれません。

そう思うと、滋賀の田園風景が、
また違った景色に見えてきませんか?!

戦国時代、近江を制するものは天下を制す!

794年(延暦13年)の平安遷都で京の都が栄えて以降、
近江米は、都で大量に消費されるお米としてその名が広がります。

もう1人の専門家、滋賀県農政水産部の平井喜与治さんにも、
話を聞いてみましょう。

滋賀県農政水産部の平井喜与治さん

「近江米は皇室献上米としての歴史も古かったんです。
そのことからも、近江米の品質の高さが
全国に認められていたことがわかりますよね」

その後、近江国は、戦国時代や安土桃山時代には、
穀倉地帯としてだけでなく、
水運や交通の要衝としての地理的な重要度も増し、
「近江を制するものは天下を制す」と言われるようになります。

事実、織田信長は、天下統一に向けた象徴として、
いまの滋賀県近江八幡市に安土城を築城。
ここを「天下布武」の拠点とします。

いつの時代も、人が暮らす上で大事なものは食料。
米の産地として栄えた近江国が、
歴史的に重要な位置になったというのは、必然なのかもしれません。

そして時代は移り、江戸時代には
近江米は「京の御備米」と呼ばれるようになり、
京の都や大坂などで評判を高めていったのでした。

明治時代にピンチ到来。近江商人が立ち上がる?!

しかし、明治時代に入って、
こうした近江米の評判を落とす重大な事件が起こります。

滋賀県農政水産部の平井喜与治さん

「1875年(明治8年)の地租改正で、
租税が米(年貢)ではなく金納になったことがきっかけで、
米の生産管理体制がずさんになり、品質が落ちてしまったんです。
近江米は『江州の掃き寄せ米』と呼ばれてしまいました。
その頃にはもう、かつての名声は地に落ちてしまったんです」と、平井さん。

ーー近江米はこのままでいいのか
ーーかつての誇りを取り戻さなければ
その思いから、滋賀県の農業関係者による、
かつてない努力の物語がスタートします。

1888年(明治21年)には、ガリ版印刷機の開発者としても知られる
近江商人・堀井新治郎さんらの呼びかけで「米質改良組合」が結成され、
すべての近江米に対して検査を実施するなど、徹底的な管理を実行。

近江米は、1897年(明治30年)の地方博覧会で、
最も高い評価を受けることとなり、無事、名誉回復を果たしたのでした。

そして始まる品種改良。そのパイオニアが滋賀県!

もう一つ、名誉回復と品質向上のために
滋賀県が取り組んだこと。それが、新品種の育成でした。

1898年(明治31年)には、
滋賀県農事試験場長の高橋久四郎さんが、
水稲では初となる人工交配を成功させます。

1906年(明治39年)には、日本初の人工交配品種『近江錦』を育成。

品種改良の歴史

それ以降、滋賀県では様々な新品種を改良し、
生産者や、消費者の想いに応えてきたのでした。

平成の世に誕生した新品種「みずかがみ」

時代は流れ、元号が平成となった1990年代初頭。
近江米に再び危機がやってきます。
温暖化により、滋賀県産コシヒカリの品質が低下してしまったのです。

「原因ははっきりしてました。高温障害です。
環境は明らかに変わっています。
では、農家は何ができるのか。
植え付け本数を調整したり、田植え時期を工夫するなど、
高温障害との闘いが始まりました」

しかし、コシヒカリのみならず、昭和期に誕生した多くの品種は
高温に弱いことも悩みどころでした。

「それなら、高温に強い品種をつくろう!ということで
滋賀県ならではの品種改良が始まりました。
そして誕生したのが、2013年にデビューした『みずかがみ』だったんです」

平井さん

折しも2003年、滋賀県では「環境こだわり農業推進条例」を制定。
滋賀県では、農薬・化学肥料の使用を通常の半分に減らした
農作物づくりを推進するための仕組みも誕生していました。

そこで「みずかがみ」は、農薬・化学肥料の使用を半分に減らした
「環境こだわり栽培」専用品種として生産がスタート。
高温でも品質が落ちない特性を発揮し、生産を拡大しました。
今でも「みずかがみ」は全てが「環境こだわり栽培」で生産され、
近江米を代表する品種の一つとなっています。

田んぼの風景

そして2024年。新たな近江米が誕生します!

長い歴史の中で育まれてきた、知恵や経験を生かし
環境にもこだわった
「生産者良し」「消費者良し」「環境良し」を実現する
滋賀ならではの「三方良し」なお米です。

近江米の新たな歴史を紡ぐお米の誕生に期待が高まります。

(取材・文 しがトコ編集部)

提供:滋賀県 「みらいの近江米」プロジェクト

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